自民党憲法改正草案にみる「家族」概念の危険性
自民党の憲法改正草案は、9条関係や「公益及び公の秩序」が国民の諸権利を制限すること、及び緊急事態という「戒厳令」条項がやり玉に挙がるが、もう一つ気になるのは「家族」の概念の強調である。現行憲法には家族に関する記述はなく、わずかに第24条;
婚姻は両性の合意にのみ基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
これが自民党草案になると、
まずは「前文」;
(前略)基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が助け合って国家を形成する。(後略)前文を受けての草案第24条;
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
さて、草案「前文」からは最小単位が個人としての国民ではなく「家族単位」であるかのように読める。
前文を受けて改正草案第24条は、第一項が挿入され、ここにも「家族が社会の最小単位であって相互扶助せよ」とある。
また現行の第二項から繰り下がった第三項にも、変わりがないように見えて、こっそり「扶養、後見」が追加されている。
これはどういうことか。
直ちに予想されるのは、公的介護ではなく在宅介護が奨励される、しかも家族が半強制的に関与することが求められ、公的な制度利用の前にまず家族が為せとされるであろう。
第三項の「扶養・後見」も家族の責任の範囲を強固にする。
たとえば先日最高裁判決が出た「認知症老人による鉄道事故に対する家族の監督責任に基づく損害賠償」に影響がある。
今回つまり現行憲法下では「監督責任は認められず賠償請求は棄却」だが、自民党草案第24条が有効になると、家族の責任は自明のこととされる。
ついでにホットな話しとして、2016年3月3日午後の参議院予算委員会、共産党小池議員が鋭く切り込んだ「介護保険(給付)」の切り捨てにも直結していると加えておこう。
介護認定者の大多数を占める要介護度1・2の高齢者に対する家事支援訪問介護を、全額自己負担にする計画が「諮問委員会」で進行中で、高い介護保険料を払ってきた団塊の世代が、いざ要介護に認定されたら保険給付がないということを「国家的詐欺」として追求された。なお具体的法案は参議院選挙後の来年提出予定だそうである。
このような自民党草案の「家族」概念が、現代社会に合致しないものであることは明らかであろう。むしろ、戦前の家族制度の復活と言うにふさわしい「復古」である。
家族道徳に属する概念を憲法に盛り込む神経はまったく時代錯誤で、法律の基本からも逸脱している。さすがは「教育勅語復活」を唱える集団が自民党に差しだした草案というほかない。
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>まずは「前文」;
>日本国民は(前略)基本的人権を尊重するとともに
自民党の草案の全文が変です。
「基本的人権を尊重するのは、まず国」ですよね?
>「教育勅語復活」を唱える集団が自民党に差しだした草案という
>ほかない。
安倍首相もそうですが、安倍ご夫人(アッキー)が、大阪にある
塚本幼稚園、幼稚園生に教育勅語や五箇条のご誓文を教える
幼稚園に行き、感動され、涙されています。
(政治家のパフォーマンスとは思えない。女優の意気込みまで見られます。)
http://www.sankei.com/west/news/150108/wst1501080001-n1.html
「家族」を憲法で定めるなんて変ですよね。僕にとって家族はかけがえのない大切な存在ですが、それは僕個人の感情の発露であって、法律のためではありません。そんな個々人の感情まで、法律で定めるのは気持ち悪いです。
やっぱり介護保険の行く末に国が自信を失って、公的扶助を引っ込めて、家族に全責任を押し付けようとしているとしか思えませんね。
>家族は、互いに助け合わなければならない。
道徳は法律に入れるものではない、と聞いています。
違憲家族(核家族とか)が出るのではないでしょうか。
>公的扶助を引っ込めて、家族に全責任を押し付けようとしている
安倍政権では年々社会保障費を削減しています。
これは税制赤字を解消するために、致し方ないという意見もあります。
ただ、経済政策(アベノミクス)が最近まで成果を出したため、「一億総活躍」
で補正予算、約一兆円追加しました。
安倍首相の一番の目的、憲法改正のためです。
私は独身、両親とも離れて(往復8000円の距離)、一人暮らし、たぶん自民党憲法では「国民」から除外されるのでしょう。
そういえば東欧のどこかの国に「独身税」なるものがあると聞きました。
作家の酒井順子さんは、友達とグループホーム計画で盛り上がっている
と以前にAERAに書いていました。基本的人権が守られているなら、
どのような生き方でもいいのです。
しかし、基本的人権がない状況、最近、被災弱者という言葉があります。東
北の被災地では、復興に目処が立たない、悲しみや苛立ちで、家庭内DV、
自殺等の問題が出ています。
国民の生命と暮らしに責任を持つのは憲法学者ではなく、政治家であるという
野党の発言は、集団的自衛権だけでなく(「自衛官の犠牲は、国家意思として
の戦争を意味する」。柳澤協二さんの言葉です。)、現状で被災地の方、または
政府の責任と認めたハンセン病患者の方にも当てはまるものだと考えています。
家族の相互扶助が憲法に書かれると、法律やその執行が両極端に分かれる可能性があります。
DVや虐待関係では、公的機関の介入は強く(実績強調のため)、その後のは「家族で仲良く解決しなさい」で放置する。
逆に児童虐待における「親権」を「家族の和」に置き換えると、介入が今よりも慎重になって後手に回る。
離婚後の親権、養育費、また親権を持たない親の介護を行う義務が子供にあるのかなど、非常に面倒な問題が起きるでしょう。
これらの「どうするのがよいか決められない」問題は、警察をはじめ児童相談所などの地方行政機関の「恣意」に任され、事例的に失敗でも「家族の和」を尊重したがゆえ仕方が無いという逃げ道を与えます。
生活保護も家族の扶助も受けられないホームレスの餓死なんかも増えるでしょう。しかもなぜか、適切な扶助を行わなかった疎遠な家族が罰せられ、国・地方は責任を回避する恐れさえあります。
憲法問題は、絵空事ではなく、法律に影響を与えて我々の生活に直接関与することを想像して下さい。
すでに失われた価値観に基づいて「あの頃はよかった」と懐かしむ風潮は、人間には避けがたい感情で「郷愁」と呼ばれる。
昭和の高度成長時代には「大正ロマン」が、平成になると「昭和レトロ」がそうだ。だが現実にはすでに失われて久しく、失われたのも必然的理由があったからだ。
「家族」も「昭和レトロ」に入るだろう。あくまで「3丁目の夕日」に過ぎないのだ。
「武士道」も、実は江戸中期以降には、すっかり官僚化つまり文官と化した武士が大半となったからこそ「葉隠れ」などにある種のカウンターとして描かれたと三島由紀夫などは述べている。
役割や性格が変わってしまった「家族」の現実を観ず、時計の針を戻そう、過去の価値観を取り戻そうとする試みが成功するはずはないのである。
アメリカが「強き良き50年代に」、ロシアが「フルシチョフ時代のソ連」に、中国が革命直後の「毛沢東時代に」なることは、誰が何と言おうとしようと、なることはありえない。
ますます高齢化する中で、わざわざ「家族による扶養と後見の義務」が憲法に定められることは、
>生活保護も家族の扶助も受けられないホームレスの餓死なんかも増えるでしょう。
だと、まさに思います。
桝本さんのように独身でおられても、ご両親との同居を強いられるかも知れません。今は家族のありかたは人それぞれの時代です。ですが自民党憲法では、姑や姑の老後の介護を、嫁がするのが当然だという、大家族主義に復古しています。
戦前は普通に出来ていたとしても、今の国民に同じことができるとは思えません。
>自民党憲法では、姑や姑の老後の介護を、嫁がするのが当然だという、
>大家族主義に復古しています。
まさに書かれているとおりで、現在、安倍政権下では社会保障を削減しています。
どこを削除しているか、というと、高齢化にあたる医療費負担の削減の予定が
あります。
安倍首相は明治時代を「3丁目の夕日的(大家族)」な、古き良き日本だと
(ルサンチマンが貯まった野党時から)思い込んでいます。
私は安倍ご夫人も、昭和~平成のお育ちなのに、「幼稚園生に教育勅語やら
五箇条の御誓文、(狭義の)愛国心を教える幼稚園」に行き、感動し涙されて
いるニュースを知り、頭は大丈夫なのでしょうか、と本気で心配です。
この非常にユニークな幼稚園は私の実家から徒歩圏内です。
(以前、実家にチラシが入っていました。)
安倍首相の考える明治時代とは、ルソーの啓蒙思想に影響を受けた
自由民権化運動の明治時代、現行憲法が作成された歴史的背景
とは全く異なるものです。
今日は3月11日で、最近は被災弱者という言葉をよく聞きます。
5年前の一週間後、学生時代の後輩、宮城県警に務めている色川君に
連絡がやっと取れました。
当時の仮家は津波災害にあい、実家に避難していました。色川君の奥さんに、
何か送れるものないか、と尋ねました。最初は、大丈夫です、なんとかできます、
と言ってたけど、よく聞いてみると「子供の靴だけお願いします」と言葉が返って
きました。外に出るための靴がないのは、すべてのものがないんだと分かりました。
今、後輩は半壊した実家を立て直し、元気にやっています。しかし、まだ仮設住宅
耐久年数とっくに過ぎていて、どう見ても、基本的人権があるような状況ではないの
です。それを自民党の草案で」「家族で解決しなさい」というのは放置だと考えています。
朝日新聞も同じ危機感。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12275379.html
あの草案、本気なのか、大丈夫なのでしょうか?
草案の前文も変です。「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と
責任感と気概をもって、自ら支え守る責務を共有し」とありますが…
国民の権利を守るためのもではなく、国を守る愛情(狭義の愛国
精神)に溢れています。基本的人権はなしで、「明治時代が古き良き
日本の3丁目の夕日的な」、家族の和を大事に、しかしそれは放置
だと思います。
自民党草案も「キモい」けれども、おおさか維新の草案も「筋の悪さ」では同程度みたいです。
「大学までの教育の無償化」は、財源確保のために税制が根本から変わるでしょうし、「衆参合併しての一院制」は国家統治と政治体制を変え、いったん現在の自民党のような巨大与党ができると、簡単に独裁ができます。
道州制を含めた「地方と国の在り方」も、地方自治法にとどまらず、警察や消防、果ては軍事まで変えかねません。
もちろん選挙制度も変わるでしょうが、下らないこと極まりの無い「名前・名称を書くだけ」というところはそのままみたいです。
自民党案もおおさか維新案も、クーデターまがいの不安定さを日本にもたらすことは確実です。
しかもきたないのは、両者とも改憲されたときのメリットもデメリットも、目に見える形で示していないところです。公党としてこれはあまりにも国民・有権者をバカにしています。
理念で飯は食えない=国民の生活はないのです。
「家族が単位」として尊重されるとなると、富の再分配を図るための相続税強化はできなくなるでしょう。家族の尊重は相続財産の尊重に簡単に翻訳できるからです。家族の協力のたまもので形成された財産を国が奪うことは「家族の尊重」に明らかに反します。
隠して「家族の尊重」が憲法に記載されれば、相続による資産(富)の格差は無制限となり得ます。
なんと世界経済の直面する最大の課題に逆行することでしょう。
AERA5月16日記事に、この問題が取り上げられているらしい。
自民党内部にも「やり過ぎた」との声も。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=3994640&media_id=173