なぜ過激派は武力に訴えるのか?
こんな基本的な疑問について今まで書いてこなかった自分が恥ずかしいです。そして勇気を持ってこのサイトに投書し、このシンプルな疑問こそが根源的な問題であることに、はっと僕の目を向けさせてくれたTさんに感謝したいと思います。まずは質問者であるTさんのコメントから質問内容を引用します。
素朴な疑問として、過激派と呼ばれる人々は(それ自体もただの名称に過ぎないとは思いますが)、なぜ自己主張をする時に武力なのですか。
元々、今までの歴史の中では、現在過激派と呼ばれている人たちがしてきたことと同じようなことをしていたこともありますが(現在でもありますが)、現代では多くの場合、言葉で主張するという方法が用いられていると思います。
様々な主張はあると思いますが、いろいろな手段がある中で、なぜ武力で解決しようとされるのでしょうか。
もし、過激派と呼ばれる人たちが武器を持たなかったとしたら、一体どんな人たち、どんな解決の仕方をされるのかと知りたくもあります。
不満があったとして、国際社会の中で、話し合いで主張をすることを、何が困難にしているのでしょうか。
(原文ママ)
とても良い質問なのでお答えします。
鋭いご指摘の通り「過激派」というのは一種のレッテル張りに過ぎません。激し過ぎる一派という意味であり、何を持って「過激化」と呼ぶかについては、私も現在のところ正確な定義があるわけではないと思います。
現在過激派と呼ばれている人たちがしていることは、一般市民に向けて銃を乱射したり、自爆テロをしたり、捕虜の首を切断して殺害したりと、残虐な暴力行為が目立ち、それゆえに「過激派」と呼ばれているわけです。たしかにこれは平時において凶悪な犯罪行為であり、戦時下においてさえジュネーブ条約違反の重大な人権侵害行為だと言えるでしょう。しかし彼ら(仮に「イスラム国」としましょう)の行為をつぶさに見ていくと、そして彼らが敵とみなしているアメリカが行っている正当な(?)戦闘行為というものをつぶさに見ていくと、両者の暴力の間には意外なほど大きな差がないことに気付かされます。
今アメリカはイラクやシリアの「イスラム国」支配地域への空爆を行っています。空爆というものはいかにピンポイントで相手の兵士だけを殺害しようとしても、非戦闘員である民間人の犠牲者を全く出さずに攻撃するというのは不可能です。特に戦闘員と非戦闘員の区別がつきにくい状況においては、一般市民を巻き添えにしてしまっているケースを否定できません。これは銃の乱射や自爆攻撃よりもある意味残酷かもしれません。空爆というと空からきれいに爆弾を落とすように見えますが、落とされた方の地上では血みどろの地獄絵図が待っています。子どもが犠牲になっているかもしれないし、首だってち切れているかもしれません。
こうやって具体的な事例で見ていくと、「過激派」と呼ばれる人たちの敵側の人たちも、けっこう過激なことをしていると言えるかもしれません。どちらの側に視点を置くかによって、見え方はガラッと変わってきます。普通私たちは自分が所属している社会の側の立場から紛争行為を見ます。「勝てば官軍」という言葉がありますが、それが国際社会において多数派であるとすると、ますます自分たちの側は正規軍だという意識が強くなりがちです。一歩引いて客観的に見てみると、「言葉で主張しようとせず、武力で解決しようとしている」のはお互い様だと言えるでしょう。
ではなぜお互いに武力で解決しようとするのでしょうか? 武器を持っているからでしょうか? いえ、おそらく武器がなければ武器を作ってでも、攻撃することでしょう。国際社会の中で、話し合いで解決できれば、それに越したことはありません。誰だって最初から武力衝突を望んでいるわけではないのです。どこからか、話し合いによる外交的手段では解決しないと判断した時、(その基準はそれぞれの思想信条によっても異なりますが)武力による解決へと発展してしまいます。
国際安全保障論の有名な言葉に「戦争とは、政治の失敗のことである」という定義があります。私はまさしくその通りだと思います。国際安全保障論の最新の理論によると、双方が論理的に外交を行えば戦争は理論上100パーセント回避できるのだそうです。双方もしくはどちらか一方に、イレギュラーな要素があった時、戦争が起こります。
ご質問に一言でお答えするなら、「話し合いで解決することを困難にしているのは、政治家が無能だから」ということになります。外交で解決できるはずなのに、その能力がなく戦争に発展させてしまう瞬間とは、時の政治家が「無能」であることを自ら認めた瞬間である、と言い切ってよろしいかと思います。こう言ってしまうと身も蓋もないですね。これはその国が豊かで教育が行き届いているという前提での理屈ですからね。
途上国の場合は話し合いで解決することを困難にしている要素は、無数にあると思います。貧困、格差、無知、不寛容、想像力の欠如、多様性への無理解。教育の不足もあるかもしれません。正しい教育を得れば、銃の代わりにペンを持つかもしれません。世界には文字の読み書きを覚える前に、銃の分解と手入れを覚える子どもたちが大勢います。そうしないと食べていけないからです。この問題は大きいと思います。いっしょに考えていきましょう。そしてそれらと戦う意志だけは持ち続けたいと思っています。
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ysugie
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戦争とテロはちょっと違うよね。戦争は国家間の利害対立を解消する程度の低い手段。政治家が無能というのは当てはまる。テロは、歴史的に見ていくと、明治維新やフランス、ロシア、中国などの革命前夜に現れた、反体制派による枠組み崩しの手段。国家間の利害対立は話し合いの余地があるけれども、社会の枠組みを壊すときにはあまり有効でないみたい。社会が非連続的に変化するには、一度は社会不安を引き起こす必要がある、という現実的な発想があるんだと思う。
この発想を否定するには、高速かつ流動的に社会システムの変化を見せてあげる必要があるけれども、日本国憲法を見てもわかるとおり、社会そのものに変化を拒否し安定しようとする保守的な性向があるように思う。簡単にいえば、人は誰も既得権を手放したがらない。既得権は守られるべきであると法律や社会は考えているように思う。
たしかに戦争とテロは、暴力に訴えて世の中を変えようとする共通点があるくらいで、まるで違うもの。同列に並べるわけにはいきませんね。
ただテロは革命前夜に欠かせない社会不安の必然性とは僕は考えていません。革命やクーデターのキッカケには非合法の武力行使はつきものです。でもそれはあくまでも非合法の武力使用であって、暗殺であったリゲリラ戦であったり、社会不安を伴うことはありうるけれども、一般民衆を暴力の危機にさらすことがそもそもの目的ではないはずです。
テロの暴力は社会変化に必要な権力者に向けられた暴力ではなく、一般民衆を恐怖に陥れることを目的としている。すなわち社会不安そのものが目的化しています。ゆえに断じて許されるものではなく、仮に世直しが目的であっても卑劣な暴力として否定されるべきでしょう。
革命性暴力とは一線を画しており、僕はカルトな反社会的暴力以外の何物でもない、人類への犯罪だと考えています。